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sweet little time

 

「コーヒー、飲めないの?」

あの日、彼は言った。まるで幼子をなだめるような、深い苔色の声で。

湯気の立つ、濃く色の出たアールグレイ。いつもは入れるミルクと砂糖を、入れないままで飲み干す。喉が熱くて焼けそうなのに、体はまだ濡れていた。

キッチンからするエタノールの匂い、台にセットされているアイロン、白いシーツのかかったベッド。部屋にあるものすべてが、清潔な呼吸をしているかのように規則正しく並んでいた。わたしという存在がそぐわなさすぎて、ひどく酔った心持になる。白く長い腕も、骨ばった手も、冷たい指も、そこにはあった。咲き過ぎたカサブランカの花束ような、その人。

あの日のことはあまり思い出せない。雨の音で目が覚めて、気が付くと外を歩いていた。長靴を履いて、けれども傘は持たずに。思い出せる次の瞬間にはもう、わたしは彼の部屋にいる。

薄いタオルケットの下で繰り返してみる。あの夜を、あの夢を、あの紅茶を、あの言葉を。

彼は言った。

「コーヒーが飲めないまま大人になるなんて、悪い子だね。」

子どもにも良い子にも戻れずに、体はしなやかに唸った。目の端にはチカチカと、汚れていくシーツが映っていた。

わたしはあの日、彼に拾われたのだろうか。それとも、捨てられたのだろうか。

逆さにつるした人形だけが、わたしの願いを知っている。