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sweet little time

 

「コーヒー、飲めないの?」

あの日、彼は言った。まるで幼子をなだめるような、深い苔色の声で。

湯気の立つ、濃く色の出たアールグレイ。いつもは入れるミルクと砂糖を、入れないままで飲み干す。喉が熱くて焼けそうなのに、体はまだ濡れていた。

キッチンからするエタノールの匂い、台にセットされているアイロン、白いシーツのかかったベッド。部屋にあるものすべてが、清潔な呼吸をしているかのように規則正しく並んでいた。わたしという存在がそぐわなさすぎて、ひどく酔った心持になる。白く長い腕も、骨ばった手も、冷たい指も、そこにはあった。咲き過ぎたカサブランカの花束ような、その人。

あの日のことはあまり思い出せない。雨の音で目が覚めて、気が付くと外を歩いていた。長靴を履いて、けれども傘は持たずに。思い出せる次の瞬間にはもう、わたしは彼の部屋にいる。

薄いタオルケットの下で繰り返してみる。あの夜を、あの夢を、あの紅茶を、あの言葉を。

彼は言った。

「コーヒーが飲めないまま大人になるなんて、悪い子だね。」

子どもにも良い子にも戻れずに、体はしなやかに唸った。目の端にはチカチカと、汚れていくシーツが映っていた。

わたしはあの日、彼に拾われたのだろうか。それとも、捨てられたのだろうか。

逆さにつるした人形だけが、わたしの願いを知っている。

カミサマノイザカヤ

神様の居酒屋は、常に席が増えたり減ったり。神様の居酒屋は、そういうもの。

 

さっきまでカウンター席しかなかったはずなのに、今やカウンター席が3列にも連なり、どうやら背後にはボックス席もあるようす。わたしはその、二列目にいる。もちろん、今は、という意味である。

 

同じ列の少し離れたところに、三人組のおじさんが座っている。真ん中はちょっぴりもっちり、左は最近アタマがキテる。

 

「平成いいやねん」と「平和協会」のいざこざが、もっぱら居酒屋での話題。

 

この居酒屋が、神様が運営している居酒屋なのか、神様が集い楽しむ場なのか、わたしには分からない。それは、この世界も同じこと。

 

わたしに分かるのは、もし神様がこの世のすべてを作ったのなら、わたしも、わたしの夢も、この居酒屋も、神様が作ったもので、

 

でもそれは、別になんの意味も持たないということ。

call me later

 

 

 

  「行っちゃったんだ。」

彼女、夜のところに。一昨日会った時、朝はそう言っていた。私は、

 「そう。」

とだけ答えた。

 

 そうか、あの子、行っちゃったんだ。夜のところに。あの病人のパジャマみたいにやたら長いワンピースや、ちっとも防寒にならなさそうな薄いカーディガンを着て、いつもぼーっとしていた、あの子。

 「それで、久しぶりに連絡が来たのね。」

そういう訳じゃないよ、と微笑みながら朝は言う。朝の、いつもの柔らかい微笑み。

 「なんとなく、会いたくなったんだ。」

私になんとなく会いたくなるということはそういうことでしょ、と思いながらも、私は明るい私を続ける。朝がなんとなく会いたいと思ってくれた、なんとなく会いたくなったと言ってくれた、あの子と正反対の、明るくて元気な私。

 「ま、とりあえず飲もうよ。今日はとことん、ね。」

追加の飲み物(生中ふたつ)と、おつまみにたこわさと茄子の漬物、から揚げをお願いします、と注文すると、朝はさっきよりも明るい顔で笑った。

 「相変わらずのチョイスをするんだね。」

朝の言葉選びはいつも慎重で、でも不器用で、可愛いな、と思う。

 「好きなんだもの。」

嬉しくて、恥ずかしくて、つい気取ったような言い方をしてしまう。こういう時に可愛く言えたらいいのに、と思う。あの子みたいに。

 「あけみちゃんは、最近どうなの?」

朝が聞く。朝のこの呼び方が好きだと思う。出会ってもう何年も経つのに、丁寧に名前を呼んでくれる、朝が。近付き過ぎず、でも離れ過ぎない、この距離感が。

 「もちろん元気。」

私は気丈な私を続ける。朝がついにあの子と付き合ったらしい、と聞いてから私は毎晩飲み歩き、このまま体を壊してそれが朝の耳に入って連絡くれたりしたらいいのに、なんて思っていたけれど、丈夫な体は壊れる素振りもなくただただ行きつけの飲み屋さんが増えた、という意味では嘘ではなかった。

こういう時、あの子ならなんと言うのだろうか。あのはかない笑顔で「うん…元気だよ」と言うのだろうか。私ですらつい守ってあげたくなるようなあの笑顔で。もしくはただ微笑むだけなのだろうか。相手に心配させまいと明言せずにいることすら相手に伝わってしまうあの微笑みを、あの子はいったい誰に習ったのだろう。

どの飲み屋さんでも、私は同じものを注文した。ビール、たこわさび、茄子のお漬物、から揚げ。私の好きな、朝が好きなおつまみ。

 

 それしても。私は呼吸を整えて考える。それにしても大体、夜のどこが朝よりもいいというのだろうか。夜と初めて会った時、夜は

 「お前、あいつのことが好きなの?」

と、聞いてきたのだ。思慮深い朝とは大違いで、初対面でお前呼ばわり、人のスペースにズカズカ入り込んできては土足で荒らして帰っていく男、それが夜だった。あれは朝たちのサークルのイベントを見に行った時だった。朝と、夜と、あの子がいた、あのサークル。

夜がそう聞いたとき、幸い近くには誰もいなかったし、会場はうるさかったから、周りにいた人には聞こえなかったと思う。私は笑って否定しようと思ったが、開こうと思った唇が震え、不覚にも泣いてしまった。お酒が入っていたのもあるし、朝があの子と楽しそうに話しているのを目の当たりにしてキツかったのもある。驚いた夜は私を屋外へ連れ出した。あの子と一瞬だけ目が合った。朝は、こちらを見てはいなかった。

 「あきらめたら?」

すこしだけ、優しいかも、と思ったのも束の間だった。夜はちっとも優しくなかった。追い打ちをかけるために連れ出したのかと苛ついたが、夜はただ正直なだけなのだと後々理解した。

 「たぶん、あいつはお前のこと好きにならないんじゃない?」

そう。夜は本当に正直で、誰が見ても間違いないことを、そのまま口にしただけのことだ。強烈な薬を無理矢理飲まされた気分だった。オブラートがないならば、どんなに不味い薬もそのまま飲み込むしかない。けれど私は吐き出した。強烈に苦くて強烈に甘い、衝撃的な色をしたその薬を。

 「イヤよ。それだけは絶対イヤ」

誰かにハッキリ言われてもダメだった。朝本人にハッキリ言われても、私は朝を想うこの気持ちを、捨てられないのかもしれない。

 「俺はお前みたいなの、結構好きだけどね。」

遊ぶ分には、と夜は付け足した。こんな最低の男がいるのかと思ったが、一度だけ頬を引っ叩いて、その日は夜と寝た。

たとえこんな言い方でも、好きだと言われたのが嬉しかった。それほど長い間、私は朝だけを想い続けて、朝だけを想い過ぎていたのだ。

 

 朝とは高校が同じで、仲のいい友人の友人だった。たまたまその友人と話しているときに朝がその子に借りたというCDを返しに来て、そこで初めて話した。

この前話したアケミってこいつのことだよ、とその友人は言った。一体何の話をしたのだといぶかしげに友人を見、それから朝の方を向くと、朝は

 「あけみちゃんっていうの?よろしくね。」

と言った。男の子にそんな風に、そんな優しい笑顔と優しい声で呼ばれたのは初めてだった。一瞬で、私は朝のことが好きになった。

たったそれだけで朝を好きになった私なら、夜なんかでも一回寝たら好きになったりするのかもしれない、と思った。ただ諦めることは出来なくとも、ほかの人のことを好きになれば少しずつ忘れられるのではないだろうかと、まだどこかで期待していた。夜は部屋に入ると存外優しかったし、初めてだと言うと(つまり、そういうことをするのは)、ふーん、と言うだけで邪険にもされなかったし、思ったよりも痛くなかったので、好きじゃない人との経験でも最悪の思い出にはならなかった。だけどそれでも、次の日起きた時、私は夜のことを好きになっても朝のことを忘れる気にもなっておらず、変わらずただ朝のことが好きなままだった。変わらずただ朝のことが好きなままの一日が、これから先もまだ続いていくのだ。あきらめないというのは、そういうことなのだと、思い知った。

胸が痛い一日を、涙が止まらない一日を、何もかも、朝に恋したあの一瞬さえも忘れたくなって飲み続ける一日を、漫画や映画を見て会いたくなっても結局メールひとつできない一日を、カラオケで片思いの曲ばかり歌ってしまう一日を、誰かに相談したくなって、でも友人には話したくなくて、深夜ラジオに投稿してしまう一日を、何度も何度も、もう本当に何度も何度も繰り返して、こんなに時が経ってしまって、それでもまだ繰り返すのだろう。

 

 「今日はありがとう、来てくれて。」

 一昨日、朝は最後にそう言った。また連絡するね、と。その“また”を、私はいつとも聞けず、ただひたすら待ち続けるのだろう。また連絡するね、の一言を何度も何度も反芻する一日が、鳴らない電話を見つめてみたり遠くにおいてみたりする一日が、私の日々に加わる。

朝は、私の気持ちに気付いていて優しいのだろうか。私の気持ちに気付いていなくて、優しいのだろうか。

どちらでも同じことだ。どちらだとしても残酷だし、どちらだとしても、私は朝をあきらめられないのだから。

 

 ふと気付くともういい時間である。冷えた足先をさする。布団にもぐって電気を消し、私は今日を終わらせる。

朝の言う“また”が、少しでも、たとえほんの少しでも、この指先に近付くように。

 

 

 

 

 

 

 

please tell me

 

 

 

  彼女が突然消えたのは三日前のことだ。

 

 その翌日から短い旅をする予定だった。彼女が好きなある映画の舞台になっていた街に、行ってみたい、と彼女が言ったからだ。

 

 「夜と一緒に生きていきます。」

 

 机の上に置かれた一枚の紙にはそう書いてあった。それを見た僕は、

 「またか」

 そう思っただけだった。初めて経験したことであるはずなのに、僕はやっぱり、またか、と思ったのだ。

 

 こうなってから口にするのはなんだが、どこかでこうなることが分かっていたように思う。ホテルは直前までキャンセル可能な部屋をおさえていたし、街までは結構な距離があるのに列車を乗り継いで行く予定にしていた。もちろん、列車のチケットも購入する前だった。でも彼女との旅行が楽しみだったのも本当だ。彼女のいない隙にガイドブックを熟読し、地図も頭に叩き込んだ。

 僕は必死で茨をかき分けていた。僕にとって彼女と一緒に歩くためだった道は、彼女にとってはこの場所から消える道となった。

 

 あの映画を、彼女は夜と見たはずだ。

 どうして夜なんだ。何度も何度も考えては止め、考えては止めを繰り返してきた問いが、また呼吸を浅くする。

 

 一緒に乗ればよかったのだろうか。

 あの今にも落ちそうな、か細い三日月のブランコに。早過ぎて聞き取れない星のおしゃべりに耳を傾け、有象無象がひしめく森で僕の下手なダンスを披露すればよかったのだろうか。彼女の叙情的な言葉の一つ一つに甘く秘めやかな吐息を返せばよかったのだろうか。あのわざとらしいほどに湿っぽい映画を何度も見てはともに涙を流せばよかったのだろうか。いたわるように優しくするのではなく、乱暴に粗雑に、荒々しく、思うが儘に、気持ちが溢れるままに。抱いてしまえば、よかったのだろうか。

 夜のように。夜のように、夜のように。

 

 安心する、と言っていたのに。朝の腕の中は落ち着く、安心する、と。そう、言っていたのに。

 寝起きの重い体を引きずる彼女を支えて歩き、乾いた体にミルクと彼女の好きなポーチトエッグと、それとたくさんのキスを注いで、少しずつ覚めていく彼女の横顔を、赤らんでいく頬を、うるおっていく唇を、小鳥たちのさえずりを聞く小さな耳を、光を受けて輝いていく瞳を、やわらかくなっていく表情を、しなやかに動き出す身体を、その一つ一つをすべて、その一瞬一瞬をすべて。すべて、愛していたのに。

 

 

 ふと気づくと外はすでに暗くなりかけていた。おびえた小鳥がそばに来て鳴いていた。

 「まだ夕方だよ。」

 声をかけて立ち上がる。めっきり寒くなった外は暗くなるのが早くなった。もうすぐ冬が来る。彼女の、夜の、好きな冬。

 少しのスープとパンで軽い食事をとり、シャワーを浴びて歯を磨き、寝る支度を整える。明日は爪を切らなくてはいけない。キッチンにあるゴミを出して、ベッドのシーツを洗い、それから、それから、  。

 

 まだ目を閉じていないはずなのに、閉じているみたいに部屋は暗い。

 今日が終わるのだ。闇の中で、明日が来ることも信じられないままで。

repeat after me

 

 

 

  「言ったでしょう?」

 私は何度も繰り返したはずの言葉をもう一度だけ口にしようと、乾ききった唇をひらく。

 「私は、朝に嫁いだの。」

 「ああ、聞いたよ。君は朝に嫁いだ。」

 深く、濃い霧の向こうから聞こえるはずなのに。湿った風は彼の声を私の耳元まで運んでくる。風はそのまま私の唇まで降りてきて、簡単に言葉を遮った。

  じゃあなぜ、なんて、聞いてどうなるの?

 風は私にいじわるく微笑む。

 

 「朝に嫁いだら、俺と別れたことになるの?」

 

 夜の言うことはもっともで、私はその言葉を待っていたのかもしれない、と思う。体も心もすでにあの懐かしいビロードの帳に包まれていた。三日月のブランコ、光速で巡る星々の歌、獣たちとともに、躍るように呼吸する森の香り。ここは何も変わっていない。

 「私は朝に嫁いだの。」

 もう何の意味もなさないその言葉を、私は再び口にする。そう、たしかに私は朝に嫁いだ。朝の隣で、たしかに私は幸せを感じていた。

 でも、それはもう、あんなにも遠い昨日のことだ。

 「そう、君は朝に嫁いだ。」

 彼も繰り返す。帳がほんの少し揺れて、霧がわたしの頬を撫でる。そっと雫が降りたのを感じた。

 

 「泣いているの?」 

 

 私が言おうとしたその言葉を、けれども実際に口にしたのは朝だった。

 目を開けると、あたり一面光に照らされていた。獣たちはどこかへ消え、木々は陽を浴びて休んでいた。頬が濡れている。朝が私を覗き込んでいるようだった。

 

 「大丈夫?」

 「泣いてないわ。大丈夫。」

 私は答えて立ち上がる。今日が始まるのだ。目の前の霧で、朝の顔が見えないままで。