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sweet little time

call me later

 

 

 

  「行っちゃったんだ。」

彼女、夜のところに。一昨日会った時、朝はそう言っていた。私は、

 「そう。」

とだけ答えた。

 

 そうか、あの子、行っちゃったんだ。夜のところに。あの病人のパジャマみたいにやたら長いワンピースや、ちっとも防寒にならなさそうな薄いカーディガンを着て、いつもぼーっとしていた、あの子。

 「それで、久しぶりに連絡が来たのね。」

そういう訳じゃないよ、と微笑みながら朝は言う。朝の、いつもの柔らかい微笑み。

 「なんとなく、会いたくなったんだ。」

私になんとなく会いたくなるということはそういうことでしょ、と思いながらも、私は明るい私を続ける。朝がなんとなく会いたいと思ってくれた、なんとなく会いたくなったと言ってくれた、あの子と正反対の、明るくて元気な私。

 「ま、とりあえず飲もうよ。今日はとことん、ね。」

追加の飲み物(生中ふたつ)と、おつまみにたこわさと茄子の漬物、から揚げをお願いします、と注文すると、朝はさっきよりも明るい顔で笑った。

 「相変わらずのチョイスをするんだね。」

朝の言葉選びはいつも慎重で、でも不器用で、可愛いな、と思う。

 「好きなんだもの。」

嬉しくて、恥ずかしくて、つい気取ったような言い方をしてしまう。こういう時に可愛く言えたらいいのに、と思う。あの子みたいに。

 「あけみちゃんは、最近どうなの?」

朝が聞く。朝のこの呼び方が好きだと思う。出会ってもう何年も経つのに、丁寧に名前を呼んでくれる、朝が。近付き過ぎず、でも離れ過ぎない、この距離感が。

 「もちろん元気。」

私は気丈な私を続ける。朝がついにあの子と付き合ったらしい、と聞いてから私は毎晩飲み歩き、このまま体を壊してそれが朝の耳に入って連絡くれたりしたらいいのに、なんて思っていたけれど、丈夫な体は壊れる素振りもなくただただ行きつけの飲み屋さんが増えた、という意味では嘘ではなかった。

こういう時、あの子ならなんと言うのだろうか。あのはかない笑顔で「うん…元気だよ」と言うのだろうか。私ですらつい守ってあげたくなるようなあの笑顔で。もしくはただ微笑むだけなのだろうか。相手に心配させまいと明言せずにいることすら相手に伝わってしまうあの微笑みを、あの子はいったい誰に習ったのだろう。

どの飲み屋さんでも、私は同じものを注文した。ビール、たこわさび、茄子のお漬物、から揚げ。私の好きな、朝が好きなおつまみ。

 

 それしても。私は呼吸を整えて考える。それにしても大体、夜のどこが朝よりもいいというのだろうか。夜と初めて会った時、夜は

 「お前、あいつのことが好きなの?」

と、聞いてきたのだ。思慮深い朝とは大違いで、初対面でお前呼ばわり、人のスペースにズカズカ入り込んできては土足で荒らして帰っていく男、それが夜だった。あれは朝たちのサークルのイベントを見に行った時だった。朝と、夜と、あの子がいた、あのサークル。

夜がそう聞いたとき、幸い近くには誰もいなかったし、会場はうるさかったから、周りにいた人には聞こえなかったと思う。私は笑って否定しようと思ったが、開こうと思った唇が震え、不覚にも泣いてしまった。お酒が入っていたのもあるし、朝があの子と楽しそうに話しているのを目の当たりにしてキツかったのもある。驚いた夜は私を屋外へ連れ出した。あの子と一瞬だけ目が合った。朝は、こちらを見てはいなかった。

 「あきらめたら?」

すこしだけ、優しいかも、と思ったのも束の間だった。夜はちっとも優しくなかった。追い打ちをかけるために連れ出したのかと苛ついたが、夜はただ正直なだけなのだと後々理解した。

 「たぶん、あいつはお前のこと好きにならないんじゃない?」

そう。夜は本当に正直で、誰が見ても間違いないことを、そのまま口にしただけのことだ。強烈な薬を無理矢理飲まされた気分だった。オブラートがないならば、どんなに不味い薬もそのまま飲み込むしかない。けれど私は吐き出した。強烈に苦くて強烈に甘い、衝撃的な色をしたその薬を。

 「イヤよ。それだけは絶対イヤ」

誰かにハッキリ言われてもダメだった。朝本人にハッキリ言われても、私は朝を想うこの気持ちを、捨てられないのかもしれない。

 「俺はお前みたいなの、結構好きだけどね。」

遊ぶ分には、と夜は付け足した。こんな最低の男がいるのかと思ったが、一度だけ頬を引っ叩いて、その日は夜と寝た。

たとえこんな言い方でも、好きだと言われたのが嬉しかった。それほど長い間、私は朝だけを想い続けて、朝だけを想い過ぎていたのだ。

 

 朝とは高校が同じで、仲のいい友人の友人だった。たまたまその友人と話しているときに朝がその子に借りたというCDを返しに来て、そこで初めて話した。

この前話したアケミってこいつのことだよ、とその友人は言った。一体何の話をしたのだといぶかしげに友人を見、それから朝の方を向くと、朝は

 「あけみちゃんっていうの?よろしくね。」

と言った。男の子にそんな風に、そんな優しい笑顔と優しい声で呼ばれたのは初めてだった。一瞬で、私は朝のことが好きになった。

たったそれだけで朝を好きになった私なら、夜なんかでも一回寝たら好きになったりするのかもしれない、と思った。ただ諦めることは出来なくとも、ほかの人のことを好きになれば少しずつ忘れられるのではないだろうかと、まだどこかで期待していた。夜は部屋に入ると存外優しかったし、初めてだと言うと(つまり、そういうことをするのは)、ふーん、と言うだけで邪険にもされなかったし、思ったよりも痛くなかったので、好きじゃない人との経験でも最悪の思い出にはならなかった。だけどそれでも、次の日起きた時、私は夜のことを好きになっても朝のことを忘れる気にもなっておらず、変わらずただ朝のことが好きなままだった。変わらずただ朝のことが好きなままの一日が、これから先もまだ続いていくのだ。あきらめないというのは、そういうことなのだと、思い知った。

胸が痛い一日を、涙が止まらない一日を、何もかも、朝に恋したあの一瞬さえも忘れたくなって飲み続ける一日を、漫画や映画を見て会いたくなっても結局メールひとつできない一日を、カラオケで片思いの曲ばかり歌ってしまう一日を、誰かに相談したくなって、でも友人には話したくなくて、深夜ラジオに投稿してしまう一日を、何度も何度も、もう本当に何度も何度も繰り返して、こんなに時が経ってしまって、それでもまだ繰り返すのだろう。

 

 「今日はありがとう、来てくれて。」

 一昨日、朝は最後にそう言った。また連絡するね、と。その“また”を、私はいつとも聞けず、ただひたすら待ち続けるのだろう。また連絡するね、の一言を何度も何度も反芻する一日が、鳴らない電話を見つめてみたり遠くにおいてみたりする一日が、私の日々に加わる。

朝は、私の気持ちに気付いていて優しいのだろうか。私の気持ちに気付いていなくて、優しいのだろうか。

どちらでも同じことだ。どちらだとしても残酷だし、どちらだとしても、私は朝をあきらめられないのだから。

 

 ふと気付くともういい時間である。冷えた足先をさする。布団にもぐって電気を消し、私は今日を終わらせる。

朝の言う“また”が、少しでも、たとえほんの少しでも、この指先に近付くように。